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桐生タイムス/2017/3/17 16:05
http://kiryutimes.co.jp/editorial/11858/

平和への願いを込めて

 太平洋戦争中の新里村へ、東京第三師範学校付属国民学校の児童200人が集団疎開してきたのは1945年1月である。
 土地の人は親切だったが、慣れない環境のため、子どもたちの望郷の念は募る一方で、3月の卒業と同時に帰京する6年生を新里駅で見送る日、抑えていた思いが一気に吹きだした。
 6年生を乗せた電車が走りだすと、子どもたちは次々に線路に飛び降り、一心に何かを叫びながら、電車のあとを追いかけて疾走した。その光景がいまもまぶたに焼き付いていると、当時4年生だった女性の証言が本紙に掲載されたのが2年前。その記事を読みながら、何度も想像してみたシーンである。
 「3月か」。そう気づき、先に読み進めなくなった。残る児童にうらやましかった帰京ではあったが、戻った6年生に待っていたであろう状況のことを考えずにいられなかったからだ。
 同年3月10日は東京で空前の夜間大爆撃があった。死者は8万人以上、重軽傷者11万人以上、全焼26万戸、罹災者100万人、都心42万平方キロメートルが焦土と化した日である。
 この子たちの帰京がもしも東京大空襲の前だったら、彼らはこの事態に巻き込まれずに済んだのだろうか。また、仮に大空襲の後だったとしても、それは過酷な日々であったろうと、あれこれ思い巡らしながら、想像はどんどん重くなっていった。
 戦時中は、これが最後かもしれないという別れのシーンが国内の至るところで展開されていた。それを運命だったとあきらめるしかなかった立場の人びとが、もう一度自らの来た道を顧みて、反省し、築き上げてきたのが日本の平和の歩みである。
 平和という状況は崩れはじめるともろい。それはかつての日本の体験に拾うまでもなく、世界各地でいま起きていることを見つめ直して明らかなのだ。
 そうした状況を直視し、これ以上の悲劇を生み出してはならないと立ち上がるのは常に地味な民衆の活動にとどまり、国家間の現実は出口のない緊張関係を高める一方の昨今である。
 ただ、そうした中にあっても私たちにできるのは「平和のありがたさを忘れないこと」だ。
 「二度と戦争をしない、巻き込まれないように、子どもたちが家族と離れ、集団疎開をすることがないように」。女性が記事で語っていた願いに、すべてが込められていると感じた。


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